先生のおはなし

連載コラム「ドラえもんのポケット」

その70 2009年の誓いその1の巻


 皆さん、明けましておめでとうございます、僕ドラえもん。

先生は年始めから当直業務をこなす予定だそうで、今年も大変だってぼやいていました。さてさてどんな年になることやら。

 先生は、毎年正月になると必ず思い出す子どもがいるのだそうで、今日はその話を聞いてきました。



藤田先生から一言》

 「私が大学を卒業してすぐ小児科に入局したのが昭和52年でした。同じ年に入局した仲間は14名で、毎年多くても10名まででしたので、その年は小児科のあたり年だったのですね。通常は卒業後1年間は大学で臨床の基礎を勉強し、2年目に実践の勉強のために前線の病院に勤務することになっていました。でもその年は入局人数が多すぎ大学での基礎勉強が不十分になるため、1年目であっても3ケ月間だけ大学から実践病院に出向き臨床の勉強をすることになりました。私もその年の9月から12月半ばまでの約3ヶ月間大阪の某病院に行ったのですが、多くの症例を経験させていただいたり、外来診察も行ったりと一人前になった気分で大学病院に帰ってきました。そして大学で担当した児が「さっちゃん」だったのです。さっちゃんは1歳半になるのに体重は5kgしかなく、立つこともできない子どもでした。それもそのはず、生まれつき小腸が閉鎖して食べたものが吸収できない体だったのです。生後すぐに手術したのですが、縫合部分がうまくくっつかず、合計3回手術していました。そのたびに小腸を短くしていたため、栄養吸収に必要な長さが残っていなかったのです。食べてもすぐに下痢をしてしまい、口からは十分な栄養が取れない子どもでした。口から出る言葉は「いちゃい(痛い)」だけ。うまれてから何回も点滴を受け、痛い目をしてきたのでしょう、白い服をみるとこの言葉しか出なかったのですね。さっちゃんは、常に下痢をして顔色が悪く動きは少なくやせ細っていました。さっちゃんのような慢性栄養失調の子どもは普通の風邪をひいてもすぐに体調を壊してしまいます。私が前の主治医から引き継いだころは便の回数は5回くらいでしたが、ある日熱を出したあと20回以上の水様便になったのです。病気のことを十分理解しないまま主治医になった私は、それでもこれもさっちゃんにとっては当たり前の状態で、これが悪い状態のはずがない、もし悪い状態になったら先輩が指導してくれるはずだと思い込んでいたのです。血管が細く点滴が入りにくいこともあって、点滴もされないままさっちゃんは、次第にほとんど動かない状態になったのです。



つづく


ドラえもん



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