兵庫県西脇市にある小児科医院。予防接種、乳幼児健診など。「子どもが子どもらしく育つ環境づくり」に積極的に取り組みます。
こんにちは、僕ドラえもん。今回は先月の続きだよ。先生の「さっちゃん」の話をきいてね。
《藤田先生から一言》 「次第に弱って行くさっちゃんを見かねて、直接の指導者ではなかったのですが、ある先輩が私を呼んで叱責されました。『藤田君、このままじゃあ、さっちゃん死んじゃうよ!』『えっ・・・』 絶句しました。私は患者さんが重篤な状態なのか、軽症なのかの判断のつかない若葉マークのたけのこ医者(藪にもなれない医師)で、状態が悪いのはうすうす感づいてはいたが、そんな症状にも対処できない人間としても半人前の医師であったたことに気づかされたのです。そして、治療も判断も他人任せにしていた自分自身にショックを受けたのです。なんのための医者志望だったのか?何を私は学んできたのだろうかと自分自身を苛んだのです。ちょうど年末にかかっていましたが、そんなことは私にはどうでも良い、とにかくさっちゃんの横に居よう、彼女の状態の変化に一番早く気づくことができる人になろうと決心しました。彼女の手の血管は細く、生まれてから何回も行ってきた点滴のため、使える血管は殆どない状態でした。今では当り前になっていますが当時珍しかった血管栄養を大学小児病棟としてはじめて施行しました。毎日大半の時間を彼女と過ごし、お正月も採血し検査もしました。そんな効果もあって次第に体調は戻っていきました。 その後私は新生児室に勤務し、彼女も自宅の近くの病院に転院され、その後彼女がどうなったかは知りません。でも私にとっては卒業1年目の大きな経験でした。これを機に、私の心の中に、小児科医としての理想像が出来たと思います。 卒業20年近くたったある日、その時私を指導してくださった先輩は、ひょんなことからさっちゃんの話になったとき、こう漏らされました。『実はね、その出来事の前後で病棟の看護婦たちの君への評価は変わったんだよ。私たちも少し見直したしね。』試練を乗り越えてどうやらその時ようやく小児科医の仲間入りの許可を得たようです。現在でも私の師と仰ぐ先輩もいます。尊敬すべき同僚もいます。彼らからいまもアドバイスをもらい続けています。開業して16年になりますが、ますます子どもを思う気持ちは強くなっています。私がそうしてもらったように、私もいい小児科医を育てたいと思っています。」
昨年にもまして仕事が増えてきた先生、でも実は誰かから頼られることを楽しんでもいるんだね。今後も長い目で見てやってください。 |
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ドラえもん |